私たちが普段目にする戸籍は「夫婦と未婚の子ども」という単位で作られています。これはごく当たり前の形のように思えますが、実は戦後の制度改正の中で作られた、比較的新しい仕組みです。そこにはGHQの意向と家制度廃止が深く関わっていました。
戸籍の変遷 ― 昭和30年改正前と現在の違い
戸籍は日本人の身分関係を記録する大切な公的書類ですが、その記載内容は時代によって大きく変化してきました。特に、昭和30年(1955年)の戸籍法改正は、家族の範囲や記載方法に大きな影響を与えています。
相続での家系図
家系図を作る動機は人それぞれですが、多くの場合は「自分のルーツを知るため」や「家族の歴史を子や孫へ伝えるため」といった理由が中心です。
そのため、一度作った家系図は押入れの奥に大切に保管されることも少なくありません。
衛門府(えもんふ)とは?
衛門府(えもんふ)は、律令制下で宮城(きゅうじょう)の門を警備し、通行者を検査する役割を担った官司です。
当初は1つの組織でしたが、大同3年(808年)に左右衛士府へ統合されて一旦廃止。その後、弘仁3年(811年)に左右衛士府が改称される際に復活し、左衛門府・右衛門府の2府体制となりました。
和訓では「ゆげひのつかさ」と呼ばれ、「靫負(ゆげひ)」という漢字をあてることもあります。「靫」とは弓を入れる容器のこと。「ゆげひ」が訛って「ゆぎえ」とも呼ばれました。唐名は「金吾」「監門」「監府」です。長官である衛門督(左衛門督・右衛門督)は、王朝和歌では「柏木」という雅称で詠まれることもありました。
衛門府は、古代から宮城の門警備を担ってきた門部(かどべ)の伝統を受け継ぎ、さらに衛士も配属。758年(天平宝字2年)には藤原仲麻呂の唐風改革で「司門衛」と改称されましたが、彼の失脚後、764年に再び「衛門府」の名称に戻りました。
衛門府は律令制の四等官制に基づき、以下の役職を設置していました。
督(かみ) 長官 正五位上(延暦18年以降は従四位下) 左右各1名
佐(すけ) 次官 従五位下(延暦18年以降は従五位上) 左右各1名
大尉・少尉(じょう) 判官 従六位下・正七位上 各2名
大志・少志(さかん) 主典 正八位下・従八位上 各2名
その他にも、医師(正八位下相当)、門部・衛士(門の警備)、物部(通行人検査)、使部、直丁などが所属していました。
衛門府は、律令制の宮廷警備を担う重要な官司であり、時代ごとの政治改革や制度変更に伴って名称や位置づけを変えつつも、長く宮城の門を守り続けました。その名は和歌や文学にも登場し、古代の宮廷文化を語るうえで欠かせない存在です。
日本の位階制度の歴史と変遷
日本における「位階」制度は、中国から律令制とともに伝わり、日本独自の発展を遂げてきました。もともとは官吏の序列を定め、功績や能力に応じて昇進させることで、世襲による官職の固定化を防ぐことを目的としていました。
戸籍取得後の次の一手 ― 旧土地台帳で広がる先祖調査
明治19年式までの戸籍取得が終わり、先祖探しの基礎資料が揃ったら、次に取り組みたいのが旧土地台帳の取得です。
旧土地台帳とは、国が土地の状況や所有者を把握し、地租(税金)を課すために作成した課税台帳で、現在は各地の法務局に保存されています。
江戸の玄関口・千住の歴史
荒川の流れとともに発展してきた千住には、古くから多くの物語が息づいています。
地名の由来にはいくつか説があり、荒川から「千住観音」が上がったことから名づけられたという説、または千葉氏がこの地に住んだため「千住」と呼ばれるようになったという説が伝わります。
武士だったのかどうかを見極める2つのポイント
先祖が武士だったのか、それとも庶民だったのかを見極めるには、大きく分けて 「住んでいた場所」と「名前」 の2つが重要です。
ご先祖をたどる──家系調査からファミリーヒストリーまで
私たちのルーツを探ることは、昔から多くの人を魅了してきました。
「家系調査」「家系図の作成」「ルーツ調査」「先祖探し」など、呼び方はさまざま。最近では「ファミリーヒストリー」という言葉もよく使われるようになりました。
家系図でみえてくるもの
なぜ多くの家系図は源氏や藤原氏につながっているのか?
家系図を眺めていると、不思議なことに気づきませんか?
多くの家が、源氏・平家・藤原氏・橘氏のいずれかに行き着くのです。