■ 原始的な尊称と「姓(かばね)」の起源
もともと「彦」「姫(媛)」「根子」「泉師」「耳」「玉」「主」などは、古代の尊称(敬称)でした。これを「原始的姓」と呼びます。
当初は他者から呼ばれる称号でしたが、のちに氏族の長(氏上)自身も自ら名乗るようになりました。
利他的への道
■ 原始的な尊称と「姓(かばね)」の起源
もともと「彦」「姫(媛)」「根子」「泉師」「耳」「玉」「主」などは、古代の尊称(敬称)でした。これを「原始的姓」と呼びます。
当初は他者から呼ばれる称号でしたが、のちに氏族の長(氏上)自身も自ら名乗るようになりました。
日本における「鎖国」の体制が固まったのは、寛永15年(1638年)から翌16年にかけてのことでした。その背景には、国内外の出来事が深く関わっています。
寛永14年に起きた島原の乱は、幕府にとって大きな衝撃でした。反乱を起こしたのは武士ではなく、圧政に苦しんだ農民やキリスト教信者たちでした。幕府は鎮圧に手こずり、最終的にはオランダに援助を要請して、反乱側を砲撃させるほどの事態となりました。
この経験は幕府に「宗教的結束の恐ろしさ」を強く印象づけ、その後の徹底したキリスト教禁止政策と、海外との交流制限につながっていきます。
寛永16年には、いわゆる「鎖国令」が出され、日本人の海外渡航や帰国を禁止し、宣教師の来日も厳しく制限しました。こうして一連の法令により、日本の鎖国体制が完成していきます。
ただし、完全に「外との接触を断った」というわけではありません。長崎の出島を通じてオランダ東インド会社が交易を続け、中国船も来航しました。さらに、対馬藩を通じた朝鮮との貿易、薩摩藩を通じた琉球との交流、松前藩を通じた蝦夷地との交易も公式に認められていました。
オランダ商館長(カピタン)は、年に一度あるいは二度、江戸へ参府し将軍に拝謁しました。その際、ヨーロッパの最新情勢を伝える役割を担いました。これにより、江戸幕府の上層部は当時の国際事情をかなり詳しく把握していたといわれています。鎖国といえども、日本は完全に孤立していたわけではなかったのです。
国内では「宗門改め」が徹底して行われ、民衆が仏教寺院の檀家であることを確認し、キリスト教徒を排除する制度が長く続きました。
明治維新を迎えても、この仕組みはすぐに廃止されませんでした。明治元年(1868)から明治4年(1871)にかけても一部地域では存続していましたが、近代国家建設を進める政府が「信仰の自由」に反するとして、ようやく廃止に踏み切りました。これにより、近代的な戸籍制度へと移行していきます。
「鎖国」というと、日本が世界から完全に閉ざされた印象を持ちがちですが、実際には限定的な形で貿易や情報の交流が続いていました。そして、島原の乱がその転換点となり、宗教・外交・貿易の政策に大きな影響を与えたのです。鎖国と宗門改めは、江戸社会を安定させるための仕組みであり、その名残は明治初期まで続いたのでした。
歴史を振り返ると、宗教と人口記録の関係は非常に興味深いものがあります。なかでも日本、イタリア、スウェーデンは、それぞれ異なる宗教的背景のもとで人々を記録し、後世に残しました。ここでは、その違いを見ていきましょう。
16世紀のイタリアでは、宗教改革の広がりに対抗するため、カトリック教会が厳しい姿勢を示しました。その一環として作られたのが「魂の記録」と呼ばれる資料です。
教会に通う人々を調査し、記録しました。
主導権は司祭にあり、信徒は聖書を自ら読むことを許されなかった
その結果、南欧では識字率の上昇が遅れました。1960年代のポルトガルにおいても、成人の識字率がまだ50~60%程度だったことはその名残と言えるでしょう。
一方、スウェーデンはプロテスタントの国でした。カトリックとは逆に、聖書を自分で読めることが信徒の義務とされました。
家ごとに聖書を持ち帰ることを推奨し読解力を確認するため、教会が「試験登録簿(エグザミネーション・レジスター)」を作成
生まれた子どもから大人まで、文字が読めるかどうかを記録
これにより、スウェーデンでは識字率が早くから高まり、教育水準の向上につながりました。
日本では16世紀、キリスト教が織田信長のもとで広がりを見せました。しかし豊臣秀吉、徳川幕府へと時代が移るにつれ、キリスト教は天下統一を脅かす存在として危険視されます。
その結果導入されたのが、宗門改帳です。
全ての日本人が仏教徒であることを寺院が証明
年齢、家族構成、生死などを毎年記録
キリシタンを排除するための徹底した監視制度
宗門改め帳は本来宗教統制の道具でしたが、今日では江戸時代の人口や家族の姿を知る貴重な資料となっています。
三者三様の宗教と記録文化
イタリア:信徒の魂を記録するが、聖書は司祭のものであり、識字率の普及は遅れた
スウェーデン:聖書を読むことを義務化し、教育・識字の拡大へ
日本:キリスト教を禁止し、全員が仏教徒であることを証明させるため宗門改め帳を整備
同じ「宗教と人口記録」であっても、目的も成果もまったく異なっていたのです。
宗教的な背景が、人々の識字率や記録文化に大きな影響を与えたことは、歴史の皮肉とも言えるでしょう。
それぞれの国で残された資料は、現在では歴史人口学や家系調査に活用され、私たちが自分のルーツを知るための貴重な手がかりとなっています。
私たちが祖先をたどるときに欠かせない史料のひとつが、江戸時代に作られた宗門改帳(しゅうもんあらためちょう)です。これは、村ごとに毎年作成された住民台帳で、住民一人ひとりの出生・死亡・結婚・移動までが詳細に記録されていました。
宗門改め帳の大きな特徴は、人口の「動態」と「生態」の両方がわかる点にあります。
動態:誕生・死亡・婚姻・移動など、人生の出来事
生態:世代ごとの人口規模や家族構成
つまり、誰が生まれ、誰が亡くなり、どの世代がどのように構成されていたのかを一目で把握できる資料なのです。世界を見渡しても、これほど連続的かつ網羅的に作られた人口台帳は珍しく、フランスやイギリスの教会簿にもない独自の価値があります。
宗門改帳が毎年欠かさず作られた背景には、キリスト教への警戒心がありました。
16世紀、日本にキリスト教が伝来すると、当初は織田信長のように保護する大名もいました。しかし、天下統一を進める豊臣秀吉にとって「一神教」は大きな脅威となりました。
その結果、1596年のサンフェリペ号事件、そして長崎26聖人の処刑へとつながります。
この事件をきっかけに、幕府は全国民が仏教徒であることを証明させる仕組みを導入しました。それが「寺請制度」であり、寺院が住民を保証し、キリシタンでないことを確認する台帳として宗門改帳が生まれたのです。
宗門改帳は本来、宗教統制のために作られた制度でした。しかし今日では、
江戸時代の人口動態を知る基礎資料
家族や地域社会の姿を復元する手がかり
家系図づくりに欠かせない史料
として高く評価されています。日本人一人ひとりの「仏教徒であることの証明」が、結果的に子孫にとっては先祖を知るための貴重な記録となったのです。
宗門改帳は、世界的に見ても珍しい「連続的に作られた人口台帳」です。そこには、江戸時代の日本人の暮らしと信仰、そして国家が抱えていたキリスト教への恐れが色濃く反映されています。
歴史的には宗教統制の産物でしたが、現代の私たちにとっては先祖の足跡を知るための宝物です。家系図づくりや歴史研究において、その価値はますます高まっています。
歴史人口学という学問を大きく前進させたのが、フランスの人口学者ルイ・アンリです。彼が確立した方法は「家族復元(Family Reconstitution)」と呼ばれています。
戸籍や宗門人別改帳は、日本で戸籍制度以前の祖先を探る手がかりに。
つまり、歴史的資料をつなぎ合わせることで、戸籍の限界を超えて先祖の姿を浮かび上がらせることが可能になるのです。
歴史人口学の源泉となったヨーロッパの教会薄冊は、洗礼・結婚・埋葬という人生の節目を克明に記録したものでした。一方、日本には宗門人別改帳という独自の制度があり、こちらもまた人々の生活を残す基礎的な台帳でした。両者は似ている点も多いですが、背景や目的には大きな違いがあります。
1. 記録の目的の違い
ヨーロッパの教会簿
信仰を前提とした記録であり、住民の誕生・結婚・死を「神の前で承認する」意味がありました。宗教儀礼としての記録が、結果的に人口研究の素材になったのです。
日本の宗門人別改帳
江戸幕府がキリシタン禁止を徹底するために導入した制度です。「どの寺の檀家か」を登録させ、同時に人口・労働力を把握する租税台帳の役割も兼ねていました。宗教統制と課税が主な目的でした。
2. 記録される内容
教会簿
洗礼:子どもの名前、両親の名前、洗礼日
結婚:夫婦の名前、出身地、年齢、署名(代筆署名も)
埋葬:亡くなった日、名前、年齢(記載される場合も)
宗門人別改帳
各村ごとに全住民の氏名・年齢・家族関係
檀那寺(所属する寺)の記載
キリシタンでないことの確認
出生・死亡も基本的に反映
ヨーロッパでは「人生の通過儀礼」が軸、日本では「宗教統制と課税」が軸であったことがわかります。
3. 学問への影響
教会簿はルイ・アンリによって歴史人口学の資料として活用され、出生率・死亡率・結婚年齢などの分析に活かされました。
宗門人別改帳も近年では歴史人口学の研究に活用され、江戸時代の平均寿命や家族構造、人口変動の研究に大きな役割を果たしています。
まとめ
ヨーロッパと日本、記録の背景は異なっても、「人の生まれ・結婚・死を残す」という点では共通しています。宗教・政治・税制のために作られた記録が、数百年を経て私たちの「先祖や地域社会を知る貴重な資料」になっているのです。
フランスの人口学者ルイ・アンリは、第二次世界大戦後に歴史人口学という新しい研究分野を切り開きました。彼が注目したのは、ヨーロッパ各地のキリスト教会に残されていた「教区薄冊(parish register)」と呼ばれる記録です。
教区薄冊には、洗礼・結婚・埋葬といった人生の節目が詳細に書き留められていました。
たとえば洗礼の記録には、受けた日付や子どもの名前、両親の名前が記されます。結婚記録には、誰と誰が結婚したか、出身地や年齢、そして署名(文字を書けない人の代筆署名を牧師がしていることも多かった)が残されています。埋葬についても「何月何日に誰が亡くなった」と具体的に書かれていました。
つまり「生まれる・結婚する・死ぬ」という人生の三大イベントが、すべて村や町の住民一人ひとりについて残されていたのです。これは現代の戸籍や住民票に近い役割を果たしていました。
ルイ・アンリの功績は、この膨大な記録を単に「出生数や死亡数を数える」のではなく、歴史的な人口推計の学問として確立した点にあります。彼の研究により、当時の出生率・死亡率・平均寿命・結婚年齢などを科学的に復元することが可能になり、「歴史人口学(historical demography)」という新しい分野が誕生しました。
今では当たり前の人口統計ですが、それを歴史の研究に活かす発想を最初に実現したのがルイ・アンリだったのです。
平安時代の後、日本は鎌倉幕府の成立を経て、室町幕府の時代へと移っていきました。
この時期の人口については、農地面積の記録や軍事力の規模をもとにした推定が行われています。
代表的なのがファリス(Farris)氏による研究です。
平安時代は律令制の基盤が揺らぎながらも、日本の人口が大きく変動した時期です。
この時代の人口推定は、『和名類聚抄』や『拾芥抄』といった地誌・行政文書に記載された田積(耕地面積)を基に計算されています。
ここでは鬼頭宏氏やファリス(Farris)氏の研究をもとに、平安時代中期の人口動向を見ていきます。