男2人兄弟の長男として昭和50年後半に生まれる。
経営者の息子として生まれ、色々な期待を込められながらつけた名前が、「秀継」。
祖父 秀夫(ひでお)
父 秀政(ひでまさ)
私 秀継(ひでつぐ)
「戦国武将のようだね」と良く言われながら、自分ではこの名前が大好き。
●親の愛情を受けヒーローだった幼稚園、小学校時代
親の愛情を受けて育ちました。
家業がある父はその当時とても忙しい時代にあったにも関わらず、昭和記念公園や小金井公園へ連れて行ってくれました。
赤の軽自動車を運転する父が、母と地図をみながらあーでもない、こーでもないと目的地まで連れて行ってくれました。その当時はナビがなかったので。
幼稚園では、ピーターパンごっこをしていました。
かなりやんちゃだったので、先生の手をかなり焼かせてました。
そんな、先生がなんと娘の小学校先生として再会。なんというご縁!
その後、4つ下の弟も生まれ、父母の仲も良好。
初孫という事で祖父母からも愛されて育った幼少期は小学生になっても続きました。
このころの将来の夢は、「警察官」でした。
小学校では父に連れられ、サッカーを始めました。
父はもともとバスケをやっていたのに、なぜサッカーへ連れてかれたか今も不思議です(私が「サッカーをやりたい」といった事を忘れているだけかもしれませんが)。
小学校4年生頃から受験をするため、日能研へ通い始めました。これは、母の一存で決められたと思います。
受験や勉強をするのは苦ではなかったのですが、友達と遊ぶ時間やサッカーをする時間を奪われるのが嫌でした。
それが原因で母と対立する事が増えてきたのが、小学校6年生頃だったと思います。
受験結果、某私立大学への入学が決まりました。
母は将来の事を考えてくれた事なので、今思えばとてもありがたい強制力でした。
しかし、これが私の1つの制約になってると気づきました。
●ヒーローから失われた3年の中学、高校時代校時代
中学でも「3K」といわれたお調子者の名物トリオで有名でした(悪い意味で)。。。
サッカー部に入り3年生ではキャプテンを務めました。
ここまでは良かったのですが、高校時代に入ると一点。。。
同級生が5倍以上増え、現実へ直面。
「中学レベルのサッカーでは通用しないよ、レギュラーなど無理」。。。
圧倒的な技術などのレベルに愕然としました。
でも、練習していつかは!! とリベンジに燃える。
そして筋トレに出会う。
「技術ではかてないから、身体能力をあげ補おう。」そう考えました。
結果、高校2年生後半にレギュラーに定着しました。
●大学時代
バイトを始める、飲み会や人づきあい。お金をもらって働く意味。
上を目指す、称号にあこがれる傾向多し。
資格をとりたがる(基本情報は大学生で取得)。
称号にこだわる(バイトリーダー、トレーナ)。
人の評価がきになる(あいつよりおれのほうがすごい)。
テニスサークルなどでの女耐性を少しづつつけていった。
着る服を変えていくために、バイト仲間と原宿へ。
最初は明るい子が良いと思っていたが、話をきいて2人の世界を作れる子に惹かれるように。共通の趣味で楽しむが一番と思っていたので、スポーツやってる女性が対象。共通の趣味 にこだわるのは、父母を見てそう感じたから。一緒に行動する時間が多くなると感じていたから。一緒に行動する事が信頼の深さへつながると暗に感じていたから。
アメリカ留学で海外へ興味をもつ。
ともかく遊んでいたが、成績だけはA評価が80%以上。2年でほぼ全ての単位を取得していた。このころから、まずは自分が安心安全の場所へ。 という考えがあった。
3年目の研究室選択。
噂で聞いていた一番大変な研究室へ入ろうと心で決めていた。
理由は、遊びはある程度満喫したから次はしっかり社会人になる前の準備をしようと考えてから。それとともに、家の会社の事が頭の片隅にあったから。
地獄の研究室、バイトができなくなるサッカーもできなくなるが、強烈な憧れる先輩にであおう。
その先輩に習いバイトの数を減らしていったり、深夜時間へシフトをずらす。
この時点でバイト歴2年以上だったため、店長に融通を利かせてもらえた。
深夜時間を利用し、夜中に遊ぶという事も覚える。
一人暮らししている友達宅でゲームや皆で深夜ボーリングなどをする。一人暮らしの人は寂しいと思い声をかける。最後にシャワーを借りて、研究室に戻り仕事or就寝。このことから、皆がメリットになる効率作りはこのころ作られる。
研究室は経営情報システム全般を扱う場所。理念は「現場主義、実施主義」。テストでなく本番と同じマシンや内容をセットしやる事! を徹底的に教えこまれる。事実その通りやると何かしらエラーが発生するから目から鱗。
同時に、実施主義。体験してからモノを言え。これが口癖。そのため、先生の雑務、例えば授業の資料作りやスケジュール管理なども研修生が行う。先生が使うパソコンの選定購入なども行う。作業量膨大のため、時間的制約が多し。朝9時先生くる前にコーヒーをわかし、先生が帰るまでは帰れず。基本終電。そんなため、4年時にあがるとき私を含めた12名全員が研究室を離脱。皆、就職活動がありこんな事してる場合じゃないね、、、と満場一致。3か月後。1人出戻り。他のメンバーを誘ったがNG。まあしかたない。
この経験が、「違和感感じる → 悩む → 行動する」が結果良い事という認識をつくる。違和感とは何か? 気持ちわるい感じ。自分の場所でない感じ。
その後、自分で色々と調べたりする苦悩と苦労。ただのにお世話になった(客観的)
運動会をやっている!東証2部上場!!従業員600名!!! という内容を気に入り入社を決定。
最終面接時、面接でなく採用が決まった人へ話すような内容で不思議に思う。
うちの父や祖父と同じ、自分が嫌われても安全安心でなくなったとしても私の事を思い=芯を通し接してくれる。かつ、見えないとこでの愛情をするタイプ。そこに惹かれてるんだと今きづく。高校の山本先生も同じ。
●社会人時代
同期30人くらいで入社。安全安心の同期。ちょうどうちらのタイミングから会社も教育方針変更。1か月の教育実習。研究室での力を発揮しトップレベルへ。配属は流通管理システム営業部ビルメンテナンス課。ビルメン様パッケージ業務システムで100社導入の隠れた良品。力を発揮し2年目に当時大規模の5000万円大型プロジェクトのリーダへ抜擢。奔走する。最大10人くらいの方をまとめながら、客先打ち合わせで仕様をまとめていく。ここがSE、プロジェクトリーダの源泉が培われた大きな出来事。平日毎日終電。土日は思いっきり遊ぶの生活。スポーツをサークルなどでやりながら、100人でキャンプするイベントスタッフなどに関わりだす。大型プロジェクトは何とか達成。その後そこで学んだ経験値=暗黙知を形式知か。マニュアルや各種ドキュメントを共通化していく。課の中でも信頼され融通がきくように。5年目に専門職と役職があがる。社内横断したプロジェクトも多くなり、社内でも信頼を得ていく。
イベント関連3年し3年目に代表に。ギネス記録を100人101脚で目指すとしたが、実はギネス記録を達成できない事が判明。スタッフでは皆に言わないでごまかそうなどの風潮が。しかし、違和感を感じ参加者全員にお詫びする事を私が決断。参加者全員へその事実とキャンセル料は不要のメールを配信。結果、キャンセル者0。
自分で決める。 これはこのあたりから始まったきが。
バドミントンサークルがきっかけで、今の妻としりあう。
「2人で100歳まで腕を組んでいこう」と今も話している最高のパートナー。
2010年 結婚、130名近く大勢の方へご参列頂く。
最高に褒められた瞬間。不得意ながら歌をプレゼントしたく、ボイトレなどへ通う。
2011年第一子が生まれる。
日本文化などへ興味を持ち、よさこい開始する。
子供がうまれる前にセブ島へダイビングへ。自分の好きな事は何がなんでも達成が基本。
2012年 部長が変わり、一つの難題を。しょぼいSEからすごいSEになるには。
社内の都合でなく、客の都合を考えろ! その一点。商売の基本。
まずは、客先訪問から始めた。社内で定期的に各担当が行うような仕組み作りを。
結果、1社との信頼関係構築。プロジェクト最後に祝勝会を開いてくださった事が、感謝の恩返しだと感じる。TCCを通じた感謝経済。そんなイメージ。
2014年 10年目の転職
転職後6週間ニュージーランド留学。英語をここで覚えてしまうといったが、挫折。目標のない勉学は続かないと実感。
(好きな本)
これから追加
(好きな映画)
これから追加