戸籍制度とともに、家族や身分に関するルールも大きく変わった明治初期。
華族や士族、僧侶や女性まで、制度がどのように変化していったかご存知ですか?
今回は、壬申戸籍とセットで知っておきたい「明治初期の身分法」についてご紹介します。
明治政府は、近代国家としてふさわしい身分制度を整備するため、壬申戸籍と同時期に次々と法令を打ち出していきました。
これらは単発で布告され、明治31年(1898)の旧民法が制定されるまで運用されていたものです。以下、時系列でポイントをまとめます。
・族称に関係なく婚姻が自由に
華族・士族・平民といった身分の違いにかかわらず、自由に結婚できるようになりました。
外国人との婚姻もOKに。
・合家(ごうけ)制度の導入と廃止
合家とは家の当主が死亡し、相続する者が幼少や婦女子で一家を維持することが困難な場合、本家と分家関係、親族関係にある家に限り、他の家と戸籍上合家して同一の戸籍の中に二つの家族が同居することが認められた制度である。
これは主に士族が利用し、合家した後も士族に対する年金などは両家に支給された。
主に士族が利用しましたが、明治9年には廃止されました。
・婚姻には戸籍登録が必須に
戸籍に記載されなければ婚姻の効力は認められないとされました。
・妻側からの離婚申し立ての道も開かれた
夫の同意がなくても、妻の親族が付き添えば裁判所に離婚を訴えることができる制度が導入されました。
・私生子の扱いと強制認知の否定
妻や妾でない女性が出産した場合、その子は「私生子」とされ、父親に認知を強制することはできないとされました。
・僧侶の妻帯・肉食などが自由に
これまで禁じられていた僧侶や尼僧の結婚、肉食、髪を伸ばすこと(蓄髪)が自由化されました。
・総領相続が原則に
華族や士族の家督は、基本的に長男が相続する「総領相続」が採用されました。
・女戸主の存在を認める
女性が家の戸主になることも制度的に認められました。
・苗字の自由な制定
代々の苗字が不明な者は、新たに苗字をつけることが可能となりました。
・分家や廃家の制度化
新たな戸籍を作る「分家」も認められましたし、分家をやめて本家に戻る「廃家」も認められました。
・跡継ぎが現れないと「絶家」に
単身の戸主が死亡しても、6か月以内に親族から跡継ぎの届けが出されなければ、その家は「絶家」とされました。
・「縁女(えんじょ)」の制度
将来、ある家の男子と結婚する予定の幼女を戸籍に記載する制度。
いわゆる「いいなづけ」です。明治31年の旧民法施行とともに廃止されました。
●まとめ
こうした制度は、壬申戸籍と並んで「家族制度の近代化」を象徴する重要なルールでした。
特に、婚姻や相続、女性の立場、僧侶の結婚など、封建的な慣習からの大転換が次々と進められていたことがわかります。
家系図や戸籍をたどっていく中で、「合家」や「廃家」、「縁女」などの記載に出会ったときは、こうした制度の背景があることを思い出してみてください。
当時の家族観が、記録の中に色濃く反映されているのです。
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