江戸時代の武士と「二つの名前」

江戸時代の武士には、通常二つの名前がありました。
「通称」と「実名」です。
例えば西郷隆盛、通称は「吉之助」、実名は「隆永」。現在は「隆盛」の名で知られていますが、実はこれは父親の実名であり、西郷本人のものではありません。

維新の功績に対して朝廷から位階が授けられたとき、西郷は友人の吉井友実に手続きを頼みました。
そのとき吉井が誤って父親の名前を届けてしまったのである。
このように、実名(諱)は他人に軽々しく口にされない名前であり、友人であっても知らないことがありました。
使用される場面は限られており、系図に記されるか、死後に墓石に刻まれる程度でした。
それでも、本来は通称よりも実名の方が格上とされていたのです。

明治2年(1869年)、薩摩藩士でのちの初代文部大臣となる森有礼が、公議所に通称廃止・実名使用の建議書を提出しました。
 第一 通称を廃し、実名のみを用いること
 第二 官位を通称の代わりとする弊害を正し、上下とも実名のみを用いること

森はその理由のひとつに「通称は五〜六文字になることもあり、書くのが不便」という実務的な点を挙げています。いかにも合理主義者らしい主張です。

この提案は「時期尚早」「身分に応じて区別すべき」といった反対意見もありましたが、最終的には163対11の圧倒的多数で可決されました。
ただし、この決議には拘束力はなく、あくまで「提案」にとどまっています。

本格的に一名主義が実施されたのは、明治5年(1872年)の壬申戸籍からです。
ここでようやく日本人の名前は「一人一名」に統一されました。
とはいえ、武士たちの対応は一様ではありませんでした。
上級武士は実名を登録する傾向が強く、下級武士は通称を登録するケースも少なくありません。
後藤象二郎や板垣退助のように、通称を戸籍に記載した人物も実際にいました。

役所側も混乱を避けるために、同一人物の複数の名前を整理する「廃名記」を作成したと言われていますが、現存する資料は確認されていません。
こうした歴史を踏まえると、除籍簿(過去の戸籍簿)に記載された名前を読む際には注意が必要です。
通称か実名かによって、その人物の旧藩時代の身分をおおよそ推測できるからです。
つまり、「名前の読み解き方」そのものが歴史資料の重要な手がかりとなるのです。
武士の系譜や旧家の調査に取り組む際には、必ず知っておきたい基礎知識だといえるでしょう。