江戸の玄関口・千住の歴史

荒川の流れとともに発展してきた千住には、古くから多くの物語が息づいています。
地名の由来にはいくつか説があり、荒川から「千住観音」が上がったことから名づけられたという説、または千葉氏がこの地に住んだため「千住」と呼ばれるようになったという説が伝わります。

歴史の記録をたどると、北条時代の小田原衆所領役帳にすでに「専住村」の名が見えます。
古くから交通や流通の拠点であったことがうかがえます。

江戸時代に入ると、千住は奥州道中・日光道中の最初の宿場町となり、「江戸四宿」のひとつとして大いに賑わいました。
三百諸侯のうち六十余家の大名行列がこの地を通り、その威風堂々たる姿は町の人々の目を楽しませたといいます。

宿場町といえば、旅人をもてなす宿屋や茶屋、そして遊女や飯盛女の姿も珍しくありません。千住の町は昼も夜も活気にあふれていました。
千住は舟運の要所でもあり、各地から運ばれた品物が集まりました。近くの市場では米や魚をはじめ、あらゆる食材が並び、やがて青物専門の市場として知られるようになります。

「ヤッチャ」場という市場を表す言葉は、競りの際の掛け声から生まれたもの。市場の熱気と人々のやりとりが、今も言葉として残っているのです。

現代の千住を歩くと、商店街や下町の路地のあちこちに、こうした歴史の面影が漂っています。江戸の玄関口として栄えた千住は、今も人と物が集まる町であり続けています。