偽系図はどこまで信じられる?──慶長・元和以降の記録を見直す

家系図の中には事実とは異なる内の偽系図が混じったものも存在します。
しかし、すべての偽系図が完全に信用できないわけではありません。
今回は、慶長・元和(1596年~)以降の家系図や記録は、一定の信頼性があるという見方についてお話しします。

■偽系図でも「ある時代以降」は信頼できる?
「偽系図」という言葉からは、“全部嘘”という印象を受けがちですが、慶長元年(1596年)や関ヶ原の戦い(1600年)、大阪の陣(1614〜15年)以降に作られた系図であれば、一定の信頼を置いてもよいという考え方があります。
なぜなら、この時代以降は政治や社会の統制が強まり、公的記録に対する嘘が通用しにくくなったためです。

過去の資料を見ても、その時代に嘘をついて記録を偽造するのは、実はとても難しいことでした。
たとえば、現代に生きる人が「先祖は某県の知事だった」と家系図に書けば、すぐに調査で事実かどうかがわかります。
同じように、江戸時代に「我が先祖は藩主の家老だった」と書けば、その土地の人々や役所が見ればすぐに不審がられたのです。
徳川時代は階級社会が厳しく、根拠のない出自を語れば信用を失うだけでなく、罰を受けることすらあったため、むやみに嘘を記すことは難しかったのです。

■戦国以前の記録は“自由度”が高かった?
一方で、戦国時代やそれ以前(元亀・天正以前)にさかのぼる記録になると話は別です。
この時代は戦乱が続き、領主や武将の交代も頻繁だったため、「どこの誰がどこに仕えていたのか」が曖昧になりがちでした。

また、戦乱で滅亡した家も多く、徳川時代に入ってからでは追跡が難しくなってしまったのです。
そのため、「我が先祖は◯◯の末裔」「△△の城主だった」といった検証困難な情報が自由に書かれた系図も多く存在します。